Whatever choice you make

あたまのなかのことばたち

街場の憂国論/内田樹

内田樹さんを知ったのはいつだったろうか、いまとなってはまったく思い出せないけれど、著作はほとんど読んでいないにも関わらず、ツイッターとブログだけは度々読んでいる。昨年は、演出者協会関西支部の主催した講座シリーズのひとつに登壇されたので、直接お話を伺う機会もあった(この講座のシリーズでは、ほかに、森達也さんや永井愛さんが登壇される会があった)。

今回読んだ「街場の憂国論」のほか、街場の◯◯論と名づけられたシリーズはあまりに有名でその書名だけは知っていたので、少しずつ読んでいきたいと思っている。

というより、この本、かなりおもしろい。大量に付箋を貼りつつ読んだので、読書記録という意味でも、引用して残したい。

 

 そして、いま、どの国でも支配層は「機動性の高い個体群」によって占められている。だから、この利益相反は前景化してこない。

 奇妙な話だが、「国が滅びても困らない人間たち」が国政の舵を任されているのである。

 もし、「操船に失敗したせいで船が沈むときにも自分だけは上空に手配しておいたヘリコプターで脱出できる船長」が操舵していると聞いたら、船の乗客たちは不安になるだろう。だが、現実に世界中の国民国家で起きているのは「そういうこと」である。 

 もう「全員がこの四つの島で生涯を過ごす」ことは統治者にとって、政策決定上の本質的な条件ではなくなった。だから今、「この四つの島から出られない機動性の低い日本人」を扶養したり、保護したりすることは「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとってはもはや義務としては観念されていない。むしろ、「弱い日本人」は「強い日本人」がさらに自由かつ効率的に活動できるように支援すべきだとされる。

 国民的資源は「強い日本人」に集中しなければならない。彼らが国際競争に勝ち残りさえすれば、そこからの「トリクルダウン」の余沢が「弱い日本人」にも多少は分配されるかも知れないのだから。 

 

これらの話は、日本に住んでいるともう至極あたりまえのようにうなずけるし、トリクルダウンなんてものが起きるとは思えないし思わない。

 

自民党の大勝、日本共産党の躍進という結果を迎えた2013年参院選について 

 近代の歴史は「単一政党の政策を一〇〇%実現した政権」よりも「さまざまな政党がいずれも不満顔であるような妥協案を採択してきた政権」の方が大きな災厄をもたらさなかったと教えているからである。知られる限りの粛清や強制収容所はすべて「ある政党の綱領が一〇〇%実現された」場合に現実化した。

 ウィンストン・チャーチルの「民主制は最悪の政治形態である。これまでに試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば」という皮肉な言明を私は「民主制は国を滅ぼす場合でも効率が悪い(それゆえ、効率良く国を滅ぼすことができる他の政体より望ましい)」と控えめに解釈する。政治システムは「よいこと」をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ「悪いこと」が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる。だが、この意見に同意してくれる人は現代日本ではきわめて少数であろう。

 

市会議員である母は、最近の新人議員は、議員職を一つの就職先として考えている節がある、多数決で採決することが民主主義であると考えているみたいだとこぼしていた。

 

 この「ねじれの解消」という文言もまた先の「綱領的・組織的に統一性の高い政党」への有権者の選好と同根のものだと私は思う。

   <中略>

  では、なぜ日本人はそのような統一性の高い組織体に魅力を感じるようになったのか。それは人々が「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を政治に過剰に求めるようになったからだ、というのが私の仮説である。

 

この<中略>の部分には、現在の自民党が、派閥が弱体化し、党内闘争が抑圧されたねじれのない政党に なっており、それは公明党共産党と同じである、そして日本人は今、そういうものを求めているのであると書かれていたけれど、この年の参院選でこの三党が躍進、もしくは堅調であったことにその理由は当たらないと思ったので削除した。いまの投票率の低い時代には、一定の組織力がある公明党共産党が堅調、躍進することにさほど驚きはない。

けれど、自民党大勝という選挙結果についての分析には同感。

 

橋下現象について、

 「日本は民主制では、決定することができない」と彼は記者会見で語った。「我々は終わりのない議論を行い、全員の意見をテーブルに載せるが、何も決められない」

 これを変革するために、彼は法律制定を妨げている参議院の廃止と首相公選制と地方分権を提案する。

  市長が着任して最初にやったことの一つは、大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということであった。

 この政策に市民のほとんどは喝采を送った。

 労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに「ざまあみろ」という喝采を送るというのは、日本労働市場でおそらくはじめてのことである。

   <中略>

 それが自分たちの死刑執行書に署名したことかもしれないということに誰も気づいていない。

 市営バスのケースは「同一労働では、最低賃金が標準賃金である」という文字通り「前代未聞のルール」に有権者たちが同意を与えたということを意味している。

  「知られている限り最も安い賃金との差額は『貰いすぎ』である」という危険な命題に大阪の労働者たちの実に多くが「理あり」とした。彼らは、他ならぬそのロジックによって、彼ら自身の給与引き下げを雇用者から言い渡されたときに反論できなくなっていることにまだ気づいていない。

 

以下、印象に残った文を引用。

 

 社会的成熟に達していない人間は「商品を買う」ことはできるが、「贈与する」ことはできない。

 

 集団というのは、幼児や老人や病人や障害者を含んでいるのが常態である。弱者たちが愉快に、自尊感情を持って暮らしていけるようにということをめざして集団は制度設計されている。強者が気分よく暮らせるように作られたものではない。そのことをはっきりさせておかなければならない。

 

公人とは「自分の反対者を含めて集団を代表できる人」、「敵とともに統治することのできる人」のことである(これはオルテガの定義だ)。

 

 国民国家擬制である。

 福沢諭吉はもっとはっきりと「私事」だと言った。 

 

忖度(自己規制)するメディアについて

 ジキル博士とハイド氏の没落の理由は、知性と獣性、欲望抑制と解放をひとりの人間のうちに同居させるという困難な人間的課題を忌避して、知性と獣性に人格分裂することで内的葛藤を解決しようとしたことにある。

 彼が罰を受けるのは、両立しがたいものを両立させようという人間的義務を拒んだからである。 

 

 もし「私の経営理念は利益を出すことではなく、会社を存続させることです」という会社経営者がいたら、「バカ」だと思われるだろう。

 だから、ビジネスマインドで国家経営をされては困ると私はつねづね申し上げているのである。 

 

 学びのシステムを持たない集団は存続することができない。

 

 一九世紀まで、マルクスの時代まで「団結せよ」という言葉が有効だったのは、マルクス自身が自分の天才を「天賦のもの」だと自覚していたからです。<中略>マルクスは自分の才能を「万人とわかちあう公共財産のようなもの」だと見なしていた。

 

 日本の若者が非活性的なのは、「自己利益の追求に励め。競争相手を蹴落として社会上層に這い上がれ」というアオリが無効だったからです。

 「連帯せよ」とマルクスは言いました。

 それは自分の隣人の、自分の同胞をも自分自身と同じように配慮できるような人間になれということだと私は理解しています。

 

グローバル社会のこと、メディアについて、教育、経済、マルクスまで、2013年初版と思われないような(それだけ、ここ数年の課題が解消されていないということ)、示唆に富んだ内容だった。