Whatever choice you make

あたまのなかのことばたち

私たちはどこへ行こうとしているのか/小熊英二

「インド日記」という著作を読んだことが、小熊英二さんを知るきっかけだった。

社会学者と呼ばれる肩書きのイメージからほど遠い、親しみやすく読みやすい文章を書かれる方という印象で、ネットでご本人の写真をみて驚いたことを覚えている。

年齢よりも若く見えて、かっこいい人なんだなあと思った。

まあ、そんなことはどうでもいい。

 

タイトルの本は、たまたま図書館で社会学関係の本棚をみていて、見つけた。

時評集という副題のとおり、最近の社会についての考えをまとめた本である。

以下、印象的な箇所を引用して残したい。

 

  現代日本語の「格差」というのは、単に年収や財産の差のことではなくて、「自分はないがしろにされている」という感覚の表現です。だから、枠をすべて壊してしまえ、正社員だの公務員だの生活保護受給者だのを保護している傘を全部とっぱらってしまえ、という感情がでてくるのでしょう。

 

  まず皆さんに聞いてみたいのですが、あなたがいちばん大切なものは何ですか?

 たぶんその答えは、皆さんバラバラだと想います。命、家族、自由、お金、出世とか。しかし戦後に日本のある時期までは、誰にとってもほぼ共通した答えがありました。

 それは”平和”です。戦争を経験した人に「何がいちばん大切ですか」と聞いたら、「決まってる、平和だ」と答えたでしょう。家族もお金も、自由も出世も、戦争になったら全部崩れてしまった。平和がすべての前提だ。それが社会的合意だった時期があったわけです。

 

 不安定になると、人は変なものにこだわるようになる。不安で迷っている状態だと、「これを買えばあなたの運勢は変わる」みたいなものにひっかかりやすい。社会もそうで、不安定になると「移民を追い出せば社会はよくなる」とか「中絶を禁止すれば社会はよくなる」とかいう勢力が出てくる。日本の場合は歴史です。「歴史の教え方を変えれば社会はよくなる」という人たちが出てきた。

 ただ、そういうのは否定のエネルギーなので、社会をまとめていく力にはなり得ない。

   <中略>

 だから、みんなが共有できる価値が必要になる。しかし、今どきそんなものがあるのか。世界中が苦労していますが、ほぼみんな賛同するのは、「公開性や透明性を高める」ことです。つまり「内部で勝手に決めるな」「俺にも言わせろ」。これは現代の共有価値になり得る。

 

 皆さんが思うより、政治家は皆さんのことを気にしています。今の政権の最大の関心は世論調査と株価です。毎週定期的に世論対策会議をやり、調査結果もよく見ている。しかし調査の数字だけではなく、「こういう意見の人がたくさんいるんだ」と見せることが大切です。ロビイングだって、「こういう人もいるんだな」と思わせるデモンストレーションですよ。黙っていたら無視されます。

 

 私が戦争が嫌いなのは、社会の雰囲気が悪くなるからです。戦争になると、必ず分断と格差が起きる。

 

 おそらく東京は、ここ二〇年の世界の中で、最も変化していない年です。日本の中でいっても、シャッター街化している地方の風景の方がよほど変化していて、国会や省庁のある永田町や霞が関、繁華街の渋谷、赤坂などが変わっていない。全体が上昇している時は中央から変化しますが、沈んでいる時は中央を昔の姿に保つために力を入れるからです。世界も日本も劇的に変わりつつあるのに、日本の政治・経済・マスコミの中央が、変化を認識しているのか心もとない。

 

年金制度、社会保障制度について

 問題は時代の変化とともに、こうした類型から漏れる人が大量に出てきたことだ。持ち家がないのに厚生年金に入れなかった元非正規労働者、廃業して跡継ぎがいない元自営業者などである。その受け皿が生活保護しかなく、高齢者の生活保護が急増している。今の制度のまま増税しても、この問題が解決しない。

   <中略>

 いくらカテゴリーを増やしても、そこから漏れる人が残るのだ。

 この問題に対する先進諸国の潮流は、全員無差別の基本保証の発想だ。たとえば、貧しい者にだけ奨学金を出すのはカテゴリーの発想だが、大学教育無償化は基本保証の発想だ。この方向に近づければ、カテゴリーから漏れる人が発生する不公平は解消する。

 

「病気とは社会の歪みが個人の症状になって現れたもの」という定義は、そんなに変わった考えではありません。

 

 つまり日本国は、国家として「何が正しいか」が定まっていない。それでも社会として秩序があったのは、町内会とか部落会とか会社とかの単位で、慣習法的な世界があったからでしょう。その状態で自治会や町内会が崩れてきているというのは、ある意味で非常に危機です。最近、歴史認識問題とかでかまびすしいのは、地域も会社も「何が正しいのか」を示してくれなくなったので、国にそれを求めたいという欲求不満が、表れてきているのだと想います。

 この問題は、誰か一人がいい案を出して、それにみんなが飛びつくという形態で解決はしないと思います。「社会の実質」をつくっていくことのほうが先だと思います。

 

 自民党というのは、主義主張を同じくする人々の集まりというより、政権党にいたいから自民党にいる政治家の集まりです。とくに六〇年代になると、岸や鳩山といった戦前の有力政治家の力が衰え、田中角栄のような戦後に地方から成り上がってきた政治家や、佐藤栄作など官僚出身の政治家たちに主導権が移りませした。こういう人たちは、良くも悪くも柔軟というか、政権が維持できるなら思想とか憲法にはそれほどこだわらない。それで経済成長に邁進して憲法は棚上げ、というかたちになりました。

 

 もともとアリストテレスなどを読みますと、ポリスつまり国家が何のためのあるのかといえば、最高善の実現のためのあると言っている。具体的には、古代ポリスの場合には神殿の前で民会をやる。そこで国家の方針、つまり最高善を実現させる。民会ではロゴスをやりとりして議論し、それによって民の声と天の声を一致させる。これが野蛮人(バルバロイ)と違うところだ。バルバロイは民会を開いたりせず、家族や族長が一方的にお触書をだし、「法の支配」ではなく「人の支配」をする。そういう自由の場を実現させるためにポリスがあり、戦士や生産者がそのために分相応の働きをするのだ、というわけですね。

 

最後に引用した部分をタイピングしながら、いまの政権、安倍首相の実現したいことというのは「法の支配」ではなく「人の支配」なんだろうなと思った。その証拠として、本来なら国家の主権者たる国民が国家を法の下に運営するための憲法の条文を変え、国家が国民を統治するという内容に変えようとしている。

彼らは、古代ギリシャの世界でいうところのバルバロイなんだろうか…、そうは思いたくないけれど。