存在の耐えられない軽さ

社会復帰のリハビリとして、社会との接点として、つらつらと書くつもりです。

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい/森達也

なんとも挑戦的なタイトルである。

同じく表紙に記載された、「正義という共同幻想がもたらす本当の危機」とこれまた長い文章が気になる。

森達也さんは、オウム真理教を被写体とした「A」「A2」というドキュメンタリーがあまりに有名だが、近年は死刑制度についても取り組み、多くの意見を述べている。

 

以下、印象に残った点を引用したい。

 

パネラーたちが同じような意見を言いながら互いにうなずき合うだけのシンポジウムやトークショーならば、参加する意味はほとんどない。 

 

 発達したメディアによって、単純化はさらに加速される。なぜならば単純化したほうが視聴率は上がり、部数が伸びるからだ。 こうして二分化された要素は、さらに濃密になりながら肥大する。正義や大義はより崇高な価値となり、悪人や悪の組織は問答無用で殲滅すべき対象となる。だからこそ死刑存知派が増殖する。いったん始まったこの動きは、治安悪化を煽るメディアによってさらに加速する。

 

※担当編集の笠井さんという方からのメールの一部※

 被害者や遺族の感情を慰撫するのは、その人たちの気持ちを代弁することではなく、その人たちの感情に寄り添う努力をすることではないでしょうか。辛いと言っている人を見て、「この人は辛いんだぞ! なんでわかってやらないんだ」と叫ぶのはやはり違うと思います。そもそも第三者の気持ちを代弁することなどできないはずです。

 誰かがしている酷い行いに対して憤りを感じるのは当たり前ですし、それを第三者が「私は許さない」と考えるのも自由です。ですが、あくまでも主語は「私」であるべきで、「被害者の人権はどうなる?」と叫ぶのは違う気がします。

 

死刑廃止論をテレビで述べた際に視聴者から匿名で受けた罵声※

「被害者の前で言ってこい! もともと死刑は復讐権の代替手段ってことを理解してないんだな」

 

1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以後、ますます加速するメディアについて

 こうしてメディアと司法と世相が三位一体になりながら、厳罰化は加速し続ける。つまりポピュリズムだ(ちなみに厳罰化は英語でpenal populismだ)。

 

 被害者遺族の思いを想像することは大切だ。でももっと大切なことは、自分の想像など遺族の思いには絶対に及ばないと気づくことだ。犯人への恨みや憎悪だけではない。多くの遺族は、なぜ愛する人を守れなかったのかと自分をも責める。あのときに声をかけていればとか用事など頼まなければよかったなどと悔やみ続ける。その辛さは想像を絶する。地獄の思いだろう。

   <中略>

 その前提を置きながら「自分の身内が殺されてから言え」とか「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書く人に言うけれど、もしも僕の身内が誰かに殺されたら、僕はその犯人を激しく憎むだろうし、死刑判決が出なければ自分で殺したいと思うかもしれない。当たり前だ。だってそのときの僕は当事者になっているのだから。

 

ライオンの側から撮られたドキュメンタリーは、生きるために彼らが行う狩りを正当化する。でも獲物の側であるトムソンガゼルの側から撮られたドキュメンタリーは、ライオンを残虐で危険な存在として描写する。どちらも嘘ではない。どちらも事実だ。でも視点によって世界はくるくると変わる。あっさりと反転する。メディアはそうした視点の一つでしかない。僕たちはメディアによって事実を見せられているのではなく、事実に対しての視点を見せられているにすぎない。でもこれ(リテラシー)に気づきながらメディアに接する人は少ない。

 

 身体的にはとてもひ弱なまま樹上から地上に降りてきた人類の祖先は、やがて道具を発明し、火を利用することを覚え、気がつけば地球における食物連鎖の最上位に位置してしまったけれど、身体的にはやはり脆弱なままだ。不安や恐怖の遺伝子も継承されてきた。どこかで自分を狙っている天敵など、もうどこにも存在していない。ところが群れの本能は、石器時代とほぼ変わらないまま保持している。

 だからきっかけさえ与えられれば、一気に脳内でアドレナリンが文追いつされる。集団で暴走したくなる。そんな事例は歴史にいくらでもある。でもメディアがこれほどに発達した現代は、この暴走がより大規模に起こりやすくなっている。

 

 ちなみにドイツでは、改憲の際には国民投票が行われていない。

   <中略>

 つまり集団になったときの自分たちを信用していないのだ。

 もしそうだとしたら、彼らの自分たちへの絶望は凄い。そしてリアルすぎるほどに正しい。人は集団となったときに間違える。もちろん個人も間違えるけれど、集団の過ちは取り返しがつかないほどにダメージが大きい。

 

 もちろん公正中立不変不党を錦の御旗にしようとする傾向は、テレビに限らずマスメディア全般にある。でもテレビは特に過剰だ。

   <中略>

 映像は表現である(そして表現はいつも一人称である)ことを忘れてしまった。

 

 例えばフランスでは、豚にナポレオンという名前をつけたり読んだりしてはならないとの法律があるらしい。

 

豚でナポレオンという名前というと、ジョージ・オーウェルの「動物農場」に出てくるなあ。いかにも悪として書かれている。

 

非国民で売国奴で平和ボケのうえにお花畑全開である 森達也は、ますますこの国で居場所をなくしているはずだ。

 

おなじく、非国民で売国奴で平和ボケのうえにお花畑全開でありたいと思う。