存在の耐えられない軽さ

社会復帰のリハビリとして、社会との接点として、つらつらと書くつもりです。

街場のメディア論/内田樹

この本は、当時筆者が在籍していた神戸女学院大学の講義を加筆・編集してまとめたものである。

神戸女学院大学と同じ市内に住んでいて、ここへ進学した友だちもいるのだけど、高校在学当時はまったく眼中にない大学だった。内田樹がここで教鞭をとっていると知っていたら、もしかしたら受験していたかもしれない。実にもったいない。でも、当時は知らなかった。これも運命だと思う。

 

彼の本を読んだあとは必ずふせんだらけになるのだけど、今回もまったくそうであった。

でも、「メディアと知」という学生対象の入門講座の内容ということと、やっぱりメディア論といえば森達也でしょうというのが自分の中にあったため、他の著作に比べて新しい発見というのはそれほどでもなかった。

 

この本を読んで印象的だったことは、これは多分筆者が意図したところにはなくて、思いがけず、わたしがいま生業とする演劇を「メディア」「資本主義経済における商品」といったテーマとつなげて考えることができたという点だ。

 

たとえば、電子書籍と紙媒体の本の違いについてこういうことを述べている。

 

 その書棚に並んだ本の背表紙を見た人が「ああ、この人はこういう本を読む人なんだな。こういう本を読むような趣味と見識を備えた人なんだな」と思われたいという欲望が書物の選択と配架のしかたに強いバイアスをかけているということです。人から「センスのいい人」だと思われたい、「知的な人」だと思われたい、あるいは「底しれぬ人」だと思われたい、そういう僕たちの欲望が書棚にはあらわに投影されている。 

 

 別にオレの家には客なんか来ないから、配架にそんな無意識的欲望のバイアスかかってないぞ、と抗議される方もおられるかもしれません。

 そうでもないですよ。

 だって、書棚に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのって、誰だと思いますか。自分自身でしょう。自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。 

 

これはまさしく真理だと思う。ていうか、自分がそうだ。誰にみせるわけではないのに、本棚に並ぶ本をみて、たまににやにやしている。岡崎京子とか平田オリザとか山本直樹とか中上健次三島由紀夫etc…を本のサイズごとに雑多に並べている。

本だけでなく、DVDとビデオのコレクションもある。

映画や演劇、美術関係のチラシを収集したファイルもある…。

誰にみせるわけでもないけど、時折自分がみて、にやにやしている。自分はセンスがいいと、自分自身が思いたいのだ。

それから、自分の好きな有名人や文化人の本棚をみたい、みるのが好きだという人もけっこう多いと思う。

どんな本が本棚に並んでいるかで、その人の人となりを知る機会になるからだ。

内田樹の言うように、そこに、自己啓発本みないなものばかり並んでいたら相当がっかりすると思う。幸いなことに、まだそんな経験はない。

 

ここで考えた。本はもちろん、たとえ読まなくたって自分の欲望を叶える手段として、買って、棚に並べることができる。映画だって、いまはたいていDVDとして手元に置いておける。たとえそれをみることはなくても。

でも、演劇は違う。実際に足を運んで、みて、自分がみたかぎりを自分の頭に入れておくだけだ。DVDになることはあるけれど、個人的には映像化された演劇ってあまりおもしろいと思わないし、どうしても生の印象には劣る。

本棚に並べて、あとからにやにやする、という欲望を演劇は満たすことができない。

 

また、書棚についてこうも言っている。

 書棚の効果というのは、ちょっと変な話ですけれど、学歴詐称にちょっと似ているような気がします。

   <中略>

 人間は自分の達成したことについてしばしば「願望」と「事実」を取り違える。たしかに、そういうことがあります。同じことが書棚についても起きているのではないかと僕は思います。

 つまり、僕自身がよく経験することなんですけれど、うちに来て僕の書棚を見た人たちは、そこにある本を全部僕が読んでいると思っている。その内容をすっかり理解していると思っている。まさか、そんなわけないのに。

 

まさに、まさに。どういう本を取り揃えるかで、自分はいかに賢い人間なのかと知ってもらいたくてウズウズしている。自分の口で語るよりも、本棚は、より説得力を持って持ち主の知識を披露して、偽ってくれるのだ。

 

ここで演劇との関連を言えば、否定する人もいるだろうけれど、知的な匂いのする演劇を好んでみにいくというのも、似ていると思う。

映画に関しても同じことが言えると思うのだけど、わたし自身は、単館系でかかる映画もみるし、ハリウッドの超大作もみるので、かなり雑多な観客となる。

でも、演劇は違う。頭からっぽでたのしくみられる作品は好まないし、ほとんどみない。そもそもバリバリにエンターテイメントな演劇ってほとんどないんだけれど、映画と演劇の観客として、かなり差がある。

ここで演劇にとって書棚のような機能があれば、自分は間違いなくあとから眺めてにやにやするだろうし、そのにやにやすることがさらに自分を演劇好きにするだろうけれど、残念ながらそんなものは演劇にはない。

せめて、チケットの半券をとっておいたり手帳に貼ったりなどして、あとからにやにや眺めるくらいだ。

とっても残念だ。

 

そして、内田樹は出版文化についてこう語る。

 出版人たちが既得権を守りたいとほんとうに望んでいるなら、この読者人層をどうやって継続的に形成すべきか、それを最優先的に配慮するべきだろうと思います。

 それは「選書と配架にアイデンティティをかける人」の絶対数を増やすことです。この「読書人」たちの絶対数を広げれば広げるほど、リテラシーの高い読み手、書物につよく固着する読み手、書物に高額を投じることを惜しまない人々が登場してくる可能性が高まる。

 

単純な理屈です。図書館の意義もわかる、専業作家に経済的保証が必要であることもわかる、著作権を保護することのたいせつさもわかる、著作権がときに書物の価値を損なうリスクもわかる、すべてをきちんとわかっていて、出版文化を支えねばならないと本気で思う大人の読書人たちが数百万、数千万単位で存在することが、その国の出版文化の要件です。

 そのような集団を確保するために何をすべきなのか、僕たちはそのことから考え始めるべきでしょう。

 

演劇や映画も、観客数の低下を長年問題として抱えている。その産業に関わる人は当然事態を深刻に捉え、なんとか手立てを打ってはいるけれど、あまり効果はないというのが現状だろう。

内田樹の語る出版文化の形成について、まったく異議はない。ほんとうにそのとおりで、じゃあどうしたらいいんだろうって、考え、議論することが必要だろうな。

 

で、ここからはJASRACのことを暗に言っているのだろうかと思えるくらいにぴったりハマることを述べていて爽快だ。JASRACの方にぜひ読んでもらいたい。もう読んでいるかもしれないけれど。

 「著作物それ事態に価値が内在している」というのが著作権保護論者たちの採用している根本命題です。読者がいようといまいとそれには価値がある。だからこそ、それを受け取った者は(その価値を認めようと認めまいと)遅滞なく満額の代価を支払う義務がある。

   <中略>

 「私は贈与を受けた」と名乗る人が出現するまで、権利上、贈与者は存在しないからです。「贈与を受けた」という名乗りこそが「贈与者」にその資格を授権するのです。

 

この世に流通するすべての商品が、本来ならばそういうものなのだ。受け手がその価値を信頼してはじめて、そのモノは価値あるモノとして存在することになる。

演劇や映画なんて、その最たるものだ。日常には必ずしも必要でないそれらは時として隅に追いやられるけれど、必ず、必要とする人がいるのだ。生み出された作品は作り手の思いだけでは不完全で、受け手がいなければ絶対に完成系になり得ない。

映画の観客に比べ、演劇の観客はとてつもなく少なく、同じ時間、場所、そして映画に比べればかなりの大金を払った人だけがみることができるという、観客になる条件をかなり仔細に突きつけてくる、ある意味かなり傲慢なメディアであるのだけど、それをクリアしてみるに値する作品は、もちろん存在するとわたしは実体験から断言できる。

 

なんとなく最近、映画は、過去の出来事を表すのに向いているなと感じることがあって、それに、映像の持つ視覚による効果や技術によってリアリズムな表現を可能とするからそう思ったのだけど、反対に演劇は、いま、ここに生きる人が目の前で演じるということがあって、やはり、「いま、ここ」を表現するのに向いているんだろうなと思った。

その、「いま、ここ」という力を最大限に発揮しようではないか、と思う。

 

話は逸れたけれど、こういう仕組みを理解せず、ただ楽曲を商品として、著作権を保護しなければならない存在としてみているとしかその行動からは思えないから、JASRACがバッシングにあっているんだろうな。

 

生み出した作品に価値を感じてくれる人と出会うために(これだけだと誤解を与えるような発言だけど、批判されたくないわけではない)、アーティストは日々作品を生み出しているんだと思う。