Whatever choice you make

あたまのなかのことばたち

日本の人形劇 1867-2007/加藤暁子

そのタイトルにふさわしく、日本の社会の中で人形劇がどのように発展し位置づけられてきたか、日本における人形劇の歴史を網羅したすばらしい一冊だった。

人形劇をやっている人でも、読んでいない人はかなりいると思う。

もったいない。ぜひ読んでほしい。

わたしたちはすべて、歴史のつながりの上に生きているのだから。

過去のことを知らずに、未来は作ることができない。

 

知らないことがかなり書かれていて、読みながらつけたふせんの数がものすごいことになってしまった。

以下、引用して残したい。

 

幕末から明治期の人形演戯の傾向を大きく分けると、カラクリ系(手品の要素をもつ変化の芸)とドラマ系(義太夫節などの語りにあわせる物語性のあるもの)になる。

   <中略>

カラクリ物は明治期とくに盛んだったが、芸を堪能できるという意味で、今日、生き残っているのはドラマ系である。 

 

 

ハリウッド映画に代表されるようなわかりやすいものが好まれると言われる昨今の傾向からは、人形劇が大衆文化として人気があった当時、この、カラクリ系ではなくドラマ系をより多くの民衆が好み、今日残るものとなったということが驚きだ。

 

 ヨーロッパではマリオネットが主流だったが、日本では糸操り人形の座はすくなかった。ほとんどが人形をしたから差しあげて遣う方式であった。この違いは人形劇が生まれた経緯と関係している。

 前者では人形を人間のミニチュアと考えた。人形を使って天国も地獄もふくめた小宇宙をつくりだそうとした。人形は人間の比喩的存在であって、人間と足元の同じ地面(床)に立つことができた。後者つまり日本では、人形劇の源流は神事あるいは祝福芸にあった。神社の祭礼などで神さまを喜ばせるもの、あるいは人々の家をたずねて神さまのかわりに祝福をさずけるものであった。芸能一般がそうであった。現在でも舞台の開幕を祝う焼くとして『三番叟』が舞われたりする。人形は小さい人間というよりも、神と人とのあいだをとりもつメッセンジャーであった。そこから人形は差しあげて遣う方式がむしろふさわしいと考えられたのだろう。

 

明治時代、ドイツの糸操り人形劇団、ダアク座が日本公演を行った際には、初日の公演をみた歌舞伎の五世尾上菊五郎が翌々月にはもう自分たちの演目にしていたらしい。著者は、「わたしはそこに、当時の歌舞伎役者がもった新時代への気構えを感じる」と書いている。

歌舞伎に対して新劇が出てきたように、演劇・芸能というジャンルがお互いに意識し、競い合っていた熱はいまはないのが残念だ。

 

ドイツの近代人形劇としては、カスペルを主役に据えた作品が目立つが、これはもともと「カスペル劇」として民間芝居で演じられていたものだそう。

さらにあの有名な、ゲーテによる「ファウスト」も、もともとは民間伝承の人形劇のひとつであったらしい。

1746年にハンブルクで公演されたということが最古の記録として残っている。

 

ネットで検索すると、ドイツの現代演劇が専門の谷川道子さんがSPACに寄稿した文章がみつかった。

spac.or.jp

 

ゲーテも、人形芝居として演じられる「ファウスト博士」をみたんだろうな。

 

話は飛ぶが、舞台美術家として有名なかの伊藤熹朔も人形劇をしていた時期があるらしい。

なんでも、

「役者に多雨する不満、新劇といっても、ほんとの始めだから、新派の役者とあまり変わりはない。こっちの舞台装置に役者がのってこない」とそれを人形劇に手を染めた動機としている。美術の新情報は、写真や画集などからも視覚的に分かる。しかし、舞台の空気、とりわけ演技といったものは、体験した人、見た人にしか分からない。ヨーロッパ近代劇の情報が日本に入ってきた、いわゆる新劇誕生の初期には、演出、美術、照明などの舞台スタッフと、演技者(役者)との理解の食い違いは相当にあっただろう。美術家がとくに人形劇をこころみようとしたわけも、俳優への不満が底流にあったと思われる。

 

次に、人形劇と教育の切っても切れない関係について。

幼児教育の現場に人形劇の活動をいち早く取り入れたのは、1923年頃のことで、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園の倉橋惣三園長であったそうだ。

人形劇の普及に熱心に取り組んだ彼の持論は、

「型にはまった幼稚園を、真に子どもの世界らしい幼稚園にする為に」であった。この教育観の根底には、倉橋の「みんなでいっしょに舞台を見る楽しさを子どもたちと分かちあいたい」という願いと、「小さなものの動きに徳に惹かれ夢中になる子ども心」への熱い共感があった。

らしい。

非常にシンプルで、いまに通じる思いだ。

 

とは言え、日本が昭和に向け富国強兵へと突き進む中で、そのようなことも言っていられなくなった。

日露戦争の英雄と讃えられる肉弾三勇士を題材にした人形劇すら作られ、こどもたちに向け上演されるようになった。

肉弾三勇士を讃えるということはつまり、捨て身の攻撃を讃えるということだ。

肉弾三勇士が亡くなった一ヶ月後には、新派、新劇、新国劇人形浄瑠璃でも舞台化され、さらに映画においては7本の映画が封切られるという国民的熱狂だったそうだ。

 

 だが、とわたしは思う。この十余年ほどのち太平洋戦争の末期、自分の操縦する飛行機ごとアメリカの軍艦に突っこんだ特攻隊や、潜水艦から人間魚雷となって飛びだす行為を、英雄とほめたたえた遠因はここにあったのだと。海の藻屑と消えた若者の多くは、我が身を弾丸として自爆するのを名誉とする空気のなかで子ども時代を送った人たちであった。

 

 人形劇が子どもの生活のほんの一角に登場したばかり、社会的認知はおろか知る人ぞ知るというものであったころに、軍部はそれに目をつけ、それによって愛国心を吹き込もうとしていたのか。しかもそのことを人形劇をつくる側が、自分たちの仕事が認知されたと素直によろこんでいたのである。当時の世間では、お上の言うことは正しいというのが普通の感覚だったのかもしれないが、それにしても、なんという庶民の素直さ、そして、なんというお上の(軍部)の目のつけどころの素早さよ!

 

また同時期、ヒトラー率いるナチス・ドイツでも、片手遣いのカスペル劇が製作宣伝に利用されており、日本軍部は、そこから人形劇を利用することを考えついたのだろうかと著者は推察している。

なんでも、大政翼賛会にも人形劇研究委員会なるものが作られていたらしく、そこでは、サザエさんに似た人形家族「大和一家」が銃後の覚悟や家族の和を説いたそう。

人形劇に関する出版数は1941年〜42年がだんぜん多いということで、社会的影響力を失ったいまの人形劇界からすると隔世の感がある。

戦時下、軍部により利用された人形劇ではあったが、この中からいまの人形劇に至る影響がたしかにあったそうだ。

この時代に人形劇に触れた人の中から、戦後の人形劇や児童演劇の発展に大いに尽力した人が生まれている。

人形劇をやっているには知らない人はいないであろう「なかよし」も、そのオリジナルは翼賛会時代にあるそうである。

 

暗い話ばかりではいけない。

藤代清治による「ケロヨン」にも触れられているのだけど、彼らの武道館公演はなかば伝説のように聞いた程度で、実際にはどんな感じだったのだろうと興味がわいた。

だって、なにしろ会場が武道館なのだ。

ネットで舞台写真をみることができた。

 

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バブリーな匂いがするけど、人形劇が武道館で上演されているというのが痛快だ。

 

人形劇の発展と密接な関係のある、子ども劇場・おやこ劇場についても触れられている。

 

 前述のファミリーとの出会いのもうひとつの出来事として、「子ども劇場・おやこ劇場」がある。福岡を発祥の地としたこの運動は、一九六六年からはじまり七〇年代に入って全国にひろまった。急速なテレビの普及によって、子どもが「お茶の間(テレビのある場所)文化」に囲いこまれてしまうことへの、また経済の高度成長が地域のつながりを壊しつつあることへの危惧から、心あるおとなたちが起こした運動であった。「良い舞台」を親子ともども見ることで、失われようとしていた家族や地域の連帯を取り戻そうというものだった。

 

ここから、現代に近しい時代の話に入っていく。

人形劇とは何かということについての言葉や、洞察がおもしろい。

1957年ルーマニアの首都ブカレストで開かれたウニマ大会に、川尻泰司とともに参加したプーク団友で詩人の山村祐は「人形劇は詩である」と、ウニマ大会の様子をまとめた「現代ヨーロッパの人形劇」という本に記したらしい。

社会主義リアリズム全盛のころで、創作のうえで、なによりテーマが重視されていた。日本の人形舞台のほとんどが、そのころまだ、一文字と袖幕のある額縁舞台でのセリフの多いドラマ劇だった。なにかが違う、もっと別のことがやれるのではないかという気持ちを、人形劇をやっていたもののだれもが感じはじめていた時期だった。

著者はこの言葉に感銘を受けたそうだ。

著者の言うこの問題は、残念ながらいまもしつこく残っているように思う。

 

人形劇団ひとみ座の宇野小四郎は、劇団をあげて東京・渋谷の東急本店通りに作ったカフェ兼劇場である「プルチネラ」に、こんな思いを託した。

ソヴィエト・ロシアの著名な人形劇かオブラスツォーフの本のなかに、屋根裏のサロン的小劇場の話があった、かれは、いつかはそういう<人形劇を徹底的に楽しめる、ちょっと気取ったサロン的劇場を開いてやるぞ、と思って>いた。<人形劇を自由に論じ、あらゆる可能性を演じる空間、人形の王国、愛の小宇宙という>サロンを夢みていた。しかし、それが新宿西口広場風さ事件で変わった。<小さくてもいい広場を構築しよう><閉鎖的サロンから、開かれた広場としての空間へ>と、プルチネラは<道路の続きみたいな所><人形劇が新鮮な外気に出会う所><社会が人形劇に触れる所>と。

平田オリザの言うような、そしてかつては宮沢賢治の目指したような「広場」が想像される。

 

現在、人形劇のフェスティバルが開催される町は全国に300以上あるらしい。

さらに知らなかったのだが、国民文化祭には人形劇部門なるものがあるらしい(ただしネットで検索したかぎり、直近で2014年秋田での情報しかわからなかった→

由利本荘市 | 人形劇フェスティバル 新作人形劇スタッフ・キャストを募集しております!)。

国民文化祭を機に人形劇フェスティバルを開催した縁で、現在まで続いている町もあるようだ。

 

海外に目を向け、フランスの太陽劇団Théâtre du Soleil)にも触れている。

実際にみたことはないのだけど、文楽人形の動きを模写したような動きを生身の俳優がすると聞いている。

そこで、思い出した!

今年、フランスはアビニョン演劇祭のオープニングを宮城聡率いるSPAC「アンティゴネ」が飾ったというニュースが記憶に新しいが(現地ではかなり好評だったそうで嬉しい)、宮城聡さんの演出も、俳優に文楽人形のような動きを要求するものだ。

フランス人って、こういうのが好みなんだろうか。

宮城さんが、いなさ人形劇まつりの審査員をしていたこともあるらしく驚いた。

 

最期にいくつか、わたしが共感する著者の人形劇観を引用。

「命を吹きこんで」 人形劇について語るときに多用される言葉だが、著者はこの言葉を使わない。おそらく人形遣い自身もそのような感覚で人形に向かってはいないだろう。かれらは「命を見つける」ことを仕事としている。

 人形劇は俳優劇にくらべれば、小さな舞台、小さな役者(人形)が大きな力を発揮する演劇だ。言語表現でいえば「詩」のようなもの、表現要素は選びぬかれ、シンボル化される。小さいことやシンボル性が、子ども、とくに幼い子どもをひきつける。だから人形劇は年齢をえらばない万人のものだ。おとながそれを見ないのは、人形劇のおもしろさに気づかないか、あるいはいまの人形劇がつまらないからだろう。

 

まちがいなく、人形劇への深い愛情によって作られた一冊だった。

人形劇に携わる人は必読。