Whatever choice you make

あたまのなかのことばたち

なぜ日本は<メディアミックスする国>なのか/マーク・スタインバーグ 監修:大塚英志 訳:中川讓

読みはじめてすぐ、うーんこれは読むのはやめようかなと思ったけれど最後まで読んだ。KADOKAWAの話がメインになる中盤以降はかなり楽しく読めた。

この本は2015年初版発行ということなのでKADOKAWAドワンゴの経営統合について好意的に書かれているけれど、2017年現在、すでにKADOKAWAドワンゴによるニコニコ動画というコンテンツはオワコンになりつつあるので感慨深いものがある。

クリエイティブな商品=実態のない商品を売ることを仕事にしている人にはとても参考になる本だと思う。考えさせられることがいくつかあった。

 

ハリウッド映画のエンドロールなどのクレジットの仕方を管理しているアメリカ・プロデューサー組合は、新しい専門職のクレジットを用意した。それが「トランスメディア・プロデューサー」である。

   <中略>

トランスメディア・プロデューサーというクレジットは、作品プロジェクトの長期的な企画立案、開発、制作、複数のメディアにおける物語の連続性の維持のいずれか若しくは全て及び独自の筋を新しいプラットフォームで創造することについて、主要な責任を有する個人または集団に授与される。

 

トランスメディア・プロデューサー」は、いわゆる「メディアミックス」を行う際の統括責任者だ。お金のかかった大作もので、メディアミックスを行わないことは多分ほぼない。

著者は、日本でメディアミックスが行われるようになる前からアメリカで同様の例があると言うが、日本のメディアミックスがアメリカでいうところの「トランスメディアストーリーテリング」に影響を与えていることはたしかだとも言う。

 

ハリウッドや北米で行われるトランスメディア展開がどのようなものなのか理解しようとすることは、日本のメディアミックスのやり方を考えること(例えば「世界」の構築を重視すること)と、とてもよく似ている。

   <中略>

そもそもの印刷文化の豊かさや、将来的なトランスメディア展開を行う上で、マンガというジャンルがいうなれば研究開発部門として機能していることなどは特に重要で、<中略>例えばフランク・ローズの『のめりこませる技術:誰が物語を操るのか』でもこのことは取り上げている。

 

アメリカのアニメとは違う、「ストップアニメーション」という日本独自のアニメーション手法について、

アメリカのテレビ放送の商業的アニメーションとして使うことを考えるなら、こららの作品は、ある種の実験映像のように見える。アメリカの視聴者が日本のアニメーションに惹きつけられる最初の取っ掛かりは、まずこの点にある。そして複雑なストーリーやメディアミックスの体験へと至っていく。実験映像に見えてしまうという点が、世界中で「アニメ」を観る人々を魅了しているのだ。

 全てのメディアは、そのメディアに何ができるかという限界によって定義される。言い換えるなら、肯定的な限界、あるいは表現を実現させるための障害こそが、個々のメディアの固有性を決定づけているのだ。

 

アニメと実写におけるキャラクターの違いについて

複数のメディアに通じてキャラクターを屹立させる際に、高いレベルでビジュアルを一貫させたことは、『アトム』がメディア間において高い相乗効果を上げた理由の一つだった。『赤胴鈴之助』のような、先行する作品におけるマンガのイメージと実写映画、TVドラマとのビジュアルの断絶を考えれば、このアトムがいかに効果的であったかわかるだろう。

靴、服、勉強机、壁や天井、ランドセル、ノートなどにアトムが用いられていくにつれて、絵的に静止した動態性を持つ『鉄腕アトム』のイメージは、幼いファンの生活の全ての場所について行くことができるようになり、常に彼らの一番好きなキャラクターとそのキャラクターの物語世界を思い出させるようになった。

アニメやマンガのキャラクターがこどもたちの身につけるグッズに登場することで、こどもたちはキャラクターをより身近に感じ、さらにアニメやマンガにのめり込んでいくというわけだ。

そのために、「安定したビジュアル」を持つアニメやマンガのキャラクターに対し、実写のキャラクターはそうもいかないということである。

 

「メディアミックス」という用語が日本におけるマーケティングの言説に入り込んできたのは一九六三年である。

   <中略>

一九六三年には、メディアミックスという言葉をタイトルに含む日本の論文が発表され、業界誌『宣伝会議』一月号のコラム「現代広告辞典」でも注目のキーワードとして取り上げられている。

 

各種広告媒体を、広告目的にしたがって、有機的、総合的、効果的に使用すること。

 

※ちなみに、日本におけるアニメの先駆けである「鉄腕アトム」が登場したのも1963年。

 

日本においてメディアミックスを仕掛けてきた角川について。

角川春樹は一九七七年のエッセイで、商品の性質や商品文化の根底がどう変化していくかを予見している。

 

本にせよ、音楽にせよ、映画にせよ、実体のない商品です。電気製品、自動車というような物質的商品ではない。本もレコードも音楽も、幻想そのままが商品だといっていい。その幻想に商品価値がなければ、たとえば本は単なる紙とインクになってしまう。

 

角川が指摘した耐久消費財から非物質的な(実体のない)商品への変化というものは、ポストフォーディズムの心臓部分であり、物理的な位置や(経済的な)価値といったものの意味合いを変えてしまった。角川が比較した二つのタイプの商品(自動車と本)が示しているのは、耐久消費財から経験財への提供へという仕事における大きな変革である。

   <中略>

経済が夢を扱う産業を中心にしてくるようになるにつれ、春樹は角川書店が夢から利益を上げていく方法を確立していった。

 

文化財が文化的消費財へと断片化し、それらの断片が大きな何かを構成する部分となる一方で、文化メディア複合企業が誕生しているのだ。ハリウッドで一九六〇年代から七〇年代にかけて起きたことと比較してみるといいかもしれない。「アメリカン・ニューシネマ」として知られる、映画や映画作りに変化が起きた時代である。

 

まったく関係ないけど、映画学校時代、講師の先生がゼミの一人一人と面談して好きな映画を聞いていくというのがあったんだけど、全員の面談が終わったあとに先生が「この中で一番映画をみてる人は◯◯さんだ」と言って、わたしたちはどうやってそれを判断したんだと思っていたら、それは、◯◯さんは「アメリカン・ニューシネマ」が好きと答えたからだって先生が言ったことを覚えている。

超どうでもいいことだけど、18歳の自分には衝撃的だった。

 

角川のメディアミックスも、小説の映画化を基盤とした春樹時代から歴彦へと経営が移っていく中で、変容していく。

 

第二の角川メディアミックスは、商品が基盤としている世界の消費を強調している。特に『MADARA』では、物語が無限に繰り返せるという性質を、輪廻転生や生まれ変わりといった概念によって与えようとした。主人公たちは一〇八回生まれ替わり一〇八の『MADARA』があると公言されていた。無限の連続性は、より最近の作品であっても同じことだ。ループモノ、時間モノ、平行世界モノと呼ばれる作品群は、無限に作品展開していくことが可能だ。『涼宮ハルヒシリーズ』や、『STEINS:GATE』といった作品は、最近の作品での好例だろう。制作側からすれば、物語を幾通りにも展開可能にするということからメディアミックスへ至るのは自然なことであり、つまりこれはメディアミックス展開のための装置であるのだ。そして、読者の側からすれば、物語が作られるメカニズムを理解していたとしても、それでもさらに物語を欲しくなるようになっているのである。

ループモノの作品がオタクに好まれるという謎が解けた。「ループモノの作品がオタクに好まれる」という説明ではなく、この場合、「オタクの興味を引くためにループモノの作品を作っている」のだと思う。

つまり、マーケティング戦略にうまく踊らされている。それが「好き」になるように環境を作られている。

 

著書によれば、この「世界観の強調」というのは日本のメディア特有のものではなく、最近のプロジェクトとしては「クローバーフィールド」や「第九地区」もトランスメディア戦略を用いているらしい。「第九地区」がそうだと言われてもあまりピンとこないけど…。

 

ハルヒ』という作品では、特に原作をアニメやその他のメディアのメディアミックスを通して変形していく過程で、徐々に世界観が拡散していくということを踏まえている。二〇〇〇年代のサブカルチャーの重要なパターンとしてループものやタイムトラベルものが挙げられるが、それは一貫した世界を保つことを重視しなくなるということでもあり、つまりはキャラクターを中心軸としたメディアミックスへ移行しているということでもある。世界の一貫性は重要視されず、非一貫性はループやタイムトラベルといった物語として説明されてしまう。世界の構築はキャラクターの設定後に行われる。多くの場合は、複数のキャラクターの、である。

 

コンテンツ・イズ・キングからプラットフォーム・イズ・キングへ

コンテンツとプラットフォームという語が現れるのは、デジタルメディアでの消費が発生した時、つまり、情報の提供やオーディオ・ビジュアルを扱う商品が、特定のメディアの楔から解き放たれても一貫性を保てるようになり、それ以前は不可能だった方法で流通できるようになってからだ。

 

コンテンツの制作の重要性が消えたわけではないが、実際は、コンテンツの媒介者、いわばコンテンツを配信したり仲介している業者が、今日では一番お金を儲け、彼らがどんどん力を握ってきているというのが、昨今のメディア状況なのではないかと思われる。グーグルやアップルやアマゾンは、閉鎖的なプラットフォームやエコシステムを持ち、それらを使って既存のコンテンツを配信している。このエコシステムの部分こそ、デジタル経済で最も収益性の高い成長分野なのである。一九九〇年代と異なり、もう企業がコンテンツクリエイターにお金を払う必要はなくなり、むしろ企業は喜んで配信事業者として振る舞って、既存のクリエイターに重労働をさせるようになった。そうした企業の力の配分は、両立することのないプラットフォーム間の争いとなり、創造活動は閉鎖的なコンテンツ配信のエコシステムの中に閉じ込められていく。 

 

ここで少し恨みがましいことを言うと、コンテンツというのが演劇でいうところの作品であるとすれば、この傾向はすでに顕著だと思う。

演劇祭が乱立し(だからこれは現代美術にも同じことが言えると思う)、どこも似たような顔ぶれが並ぶ昨今、そこで作品を上演できた者が勝ちで、そうでないものは人に知られることなく消えていく。

本来なら作品そのものを作るスタッフやキャストが尊重されるべきなのに、作品は単に「演劇祭を成り立たせる」ための一コンテンツでしかなく、ただ消費されるために存在してしまっている例もある。

もちろん心ある演劇祭の運営者も確実にいると言えるけれど、それは少数派だと思う。

演劇祭の運営も大変だけど、作品=コンテンツを生み出すのは、大変なんていうものではない。

 

クール・ジャパン政策を担当するのもこの象徴であるということはそれなりに重要だろう。アニメからマンガ、キャラクターグッズ、メイドカフェまでを推進する部局は経産省にある。ソフトからコンテンツへの移行が一九九〇年代半ばまでに発生し、二〇〇〇年代初期にはその地位を固め、日本のコンテンツを推進するというクール・ジャパン政策の背景になったのは明白だ。

 

なるほど、クール・ジャパン経産省が推進しているということは、これは文化を育て、コミュニケーションの一手段として扱うということではなく、クール・ジャパンというのはコンテンツを使った単なる金儲けなのだといまようやく理解した。

そもそも、経産省という省庁が管轄に置いている時点で、本来であれば当事者である日本文化の作り手たちはクール・ジャパンには入れないのだ。

クール・ジャパンは金儲けや自尊心を高め、「日本スゲー」と自分で言いたいがためのものなんだ……。