Whatever choice you make

あたまのなかのことばたち

僕たちの好きだった革命/鴻上尚史

鴻上尚史といえば、いまも伝説のように残る「朝日のような夕日をつれて」という舞台作品をまず想起する。

わたしは2014年に上演された「朝日のような夕日をつれて[21世紀版]」をみることができた。舞台は、すごかった…、いったいどういう内容だったかとんと思い出せないのだけど、異様な熱を放つすごい舞台だった、ということだけははっきり覚えている。

チケットは直前に買ったか当日券を買ったので、ピロティーホールの最後列だったんだけど、それでも、舞台の熱はわたしの座る客席まで届いていた。

なんかすごいものをみた、という思い出だけが残っている。もう一度みたいのだけど、なかなかやらないだろうなあ…。

 

この小説は、学生運動が最後の盛り上がりをみせた1969年当時高校生だった「山崎」が、デモのさなかに機動隊の暴力に倒れ、実に30年間も昏睡状態に陥った後、1999年にふたたび目を覚まし、失われた高校生活を取り戻すというファンタジーな設定がなされている。

「山崎」は固有名だけどそうではなく、もはや歴史となってしまった学生運動の担い手たちの亡霊のような存在だ。

ファンタジーといったのは、だって、30年間も現実を不在にしていた人間が、こんなに短期間で現実に復帰できるとは到底思えないからだ。

学生運動に参加したことのある年代の人にとっては、一種、ノスタルジーを感じる設定になっていると思うし、若い人には受け入れられにくい話なんじゃないかと思う。

 

学生自治を求めることがあたりまえだった当時とは違う現在の学校の管理教育に疑問を持った山崎は、当時と同じく学生主体による文化祭の開催を求めて、現代の高校生の仲間たちと紛争するのだけど、アジビラや集会をしようという「山崎」の行動は現代の高校生にとってはまったく不可解で、なかなかついていけない。

それでも行動をともにし会話をする中で少しずつ通じ合い、学生主体による自主文化祭開催当日の闘争は爽快だ。

 

「山崎」は、逃げた仲間を裏切りだと言う高校生に対し、

「裏切ったんじゃないよ。負けただけだよ」「だから、」「何度負けてもいいんだよ。最後に勝てばいいんだから」「……だけど」「大切なクラスメイトじゃないか」

 と言う。

どうしてそんなにがんばれるのかという問いには、

「この国の未来、自分たちの未来、高校生の未来、未来(みく)ちゃんの未来、僕の未来。きっといい未来になるって僕は信じてる。だから、がんばれるんだよ」
「勝ち取るんだよ」「人間は、試行錯誤を続けながら、きっと進歩するんだ」

と答える。

あの頃の誰もが、そう思っていたと思う。学生運動の暴力が加速し、連合赤軍によるあさま山荘銃撃戦以降に明らかになった彼らのリンチによる仲間の殺人、血で血を洗い、無関係の人まで手にかけた内ゲバ、無差別テロ事件。そんな負の側面ばかりクローズアップされる学生運動だけど、ほんとうは、はじめは、純粋なものだったはずだ。

ただ、いまよりもよい未来を目指していた。いまよりもよい未来をつくろうと希望に満ちていた。

アニメ「エウレカセブン」で語られる、「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」という言葉を思い出した。

この言葉の元ネタは新約聖書マタイ伝に記述された「求めよ、さらば与えられん 探せよ、さらば見つからん 叩けよ、さらば開かれん」という言葉だ。

自ら求めず、先生の指示に従う。そんな現代の学校教育の在り方に、甦った亡霊としての「山崎」ははっきりとNOを突きつけるのだ。そして現代の高校生たちを鼓舞する。

 

この小説で、ひとつ、未来を予言していたな、と思うエピソードがある。

現代の高校生たちが文化祭に呼びたいと提案し、先生に否定された「タイト・キック」というラップ歌手が重要な役回りを果たすのだけど、この「タイト・キック」のアジテーションがSEALDs(http://www.sealds.com)のアジテーションを思わせるものになっている。

「拓明高校の誇りとなるような文化祭を実現しようではないか!」「That's right! Oh Yes! そのとーり!」タイト・キックは、拳を突き上げた。二人は、完全に呼吸をつかんだ。ラップとアジ演説があわさって不思議なグルーブが生まれた。それは人々を煽り、動かし、刺激し、思いを届ける、新しい言葉のスタイルだった。アジ演説とラップが出会って、アジ演説でもラップでもないものが生まれた。いや、それは、本当のアジ演説や本当のラップなのかもしれない。

この小説って、最近出されたものだっけと思わず出版年を確認してしまった。初版発行は平成20年。SEALDs登場よりも前だ。

スマホを片手に、ラップを背景に自分の思いや主張を語るSEALDsのスタイルはこれまでのアジのイメージを変えたし、度肝を抜かれた人も多いと思う。

そのスタイルに酷似したアジが、ここにこうやって書かれているなんて。

 

30年も眠り続けた「山崎」とは対照的に、1969年から断絶を経ずに生きてきた人物も登場する。

かつて山崎の同士であり先輩であった「兵藤」は、現在では高校の教頭として生徒を管理する立場にまわっている。

山崎の同士であり憧れの人だった「橋本文香」は、高校生の母親となっている。

山崎が昏睡するきっかけをつくった機動隊の「大門」はいまも機動隊に所属し、かつての学生との闘いをいまも望んでいる。

誰もが、あの時代の呪縛から逃れられずにいる。

 

「兵藤」と「橋本文香」の場合はもっと切実で、あの高校生時代の闘争を経て大学に進学した2人は、そこで、凄惨な内ゲバを経験することになるのだ。

「あの時、兵藤さんのせいで、みんな人生を誤ったと思ってるんですか?」「兵藤さんは言われたことあるんですか? 誰かから、お前のせいだって言われたこと、あるんですか?」「あの時、みんな、兵藤さんの演説に感動して主体的に自分の判断で参加したんです。兵藤さんを責めた奴なんかいなかったでしょう」

と問う山崎に、兵藤はこう答える。

「……いたよ」「俺だ。俺が俺を責めたよ」

かつて拓明高校全共闘の中心的存在だった兵藤は大学入学後、学生運動とは距離を置いた。一方の橋本文香は全共闘にますますのめり込み、恋人を内ゲバで殺されたのだ。

そしてその文香の恋人を殺した人物もまた、かつて拓明高校全共闘として一緒に闘った仲間だったのだ。入学した大学、学部、サークル。その違いは党派の分かれ目となり、かつての仲間を敵と認識し、殺すには十分な違いだった。

 

物語の終了間際、開催を決行した自主文化祭をつぶされてたまるかと、高校生は学校に常備されているアルコールランプと硫酸を手に取る。

これでなんとかなるという高校生に対し、山崎はこう言うのだ。

「だめだ!」「えっ?」「そんなもの使っちゃだめなんだ 」「だって、みんな、」「だめだ。俺たちは、正しく戦って、正しく負けないといけないんだ」「正しく負ける?」「そしたら、きっと勝つ」

かつての学生運動が過ちとされたのは、これに尽きると思った。

加速する権力との闘った彼らは、正しく戦って、正しく負けることができなかった。

「正しく負ける」とは、なんとむずかしいことだろう。

でも、これもわかる。この小説で山崎や高校生たちが闘っている相手は、高校の教師であったり理事長、少しの機動隊であるが、学生運動を担った彼らが闘っていたのは日本政府だ。

正しく戦って正しく負けるなんていう道は用意されていなかった。正しく負けるということはすなわち、歴史に消えていくということだ。だってもう1969年頃には学生運動に共感する市民はわずかになっていたのだ。

そこで彼らが正しく戦って正しく負けようと、大部分には知られることもなかっただろう。

それは、正しく戦ったSEALDsをはじめとする現代の市民の活動が、すでに下火になってしまったことと似ている。

でも、だからこそわたしたちは、正しく戦って正しく負ける、そのことを続けるしかないのだと思う。

ひとりが倒れても、誰かがまた「正しく戦って正しく負ける」その繰り返しを続けるしかない。

市民社会はまだその戦法をとったことがないのだ。

 

この自主文化祭を巡る攻防が終わったのち、「山崎」は亡くなった。

多分、亡くなるしかなかった。亡霊としての「山崎」を亡くならせることでしか、この物語を終わらせることはできなかった。そう思う。

 

学生運動が持つのは、負の側面だけではなかった。

さようなら、僕たちの好きだった革命…、でも、きっと、それを担う人はまたどこかから出てくる。

それは社会が健全さを保つためには必要不可欠なものだから。

2017年。わたしはいまこのときも、革命を信じている。